郡山市フロンティア大使船山隆氏の
音楽人生を聴く

音楽評論家・音楽学者 船山隆氏

聞き手ああああああああああああああああ
音楽愛好家・郡山文化協会顧問 大槻順一

大槻 それでは船山隆さんのお生まれになった時から現在に至るまでのご経験ご体験、船山さんの豊かな人生をお聞きしたいと思います。
まずは郡山でお生まれになられたのですよね。

船山 私の両親は山形の人間でしたが、郡山市で教員として勤務しており、私は田村郡田村町守山で生まれました。
僕にとって重要なのは留学したフランスのパリでの生活、それから今住んでいる新宿区の早稲田での時間も重要ですが、特に郡山は私にとって文化的音楽的に重要な街です。

大槻 郡山が音楽的に重要ですか。
私も郡山の人間ですのでよく存じていますが、このとても静かな、静かすぎる街で育った時間が重要だったということなのですね。

船山 守山で生まれてから後に一時、私は田村郡田村町高瀬村(ここも現在は郡山市)にいたことがあり、その高瀬から自転車で高下駄を履いて安積高校に通いました。1時間かかりました。忘れられないのは 途中金屋の飛行場跡があって春になると菜の花が咲いていて雲雀が高く飛んでいる長閑かな風景が展開されています。そこを英単語帳で単語を覚えながら通学しました。行きは登りの坂道があって大変でしたけど、音の景色としては静かであったけど豊かであったと思います。

大槻 初めて音楽に接したのはいつ頃でしたか?

船山 うちの母親が守山小学校の音楽の先生でした。私が小学校に入る前に、ある日母親を学校まで迎えに行くと母親が木琴をプレゼントしてくれたんです。それで木琴をたたきながら小学校から家に歩いて帰りました。その時木琴の音に触れたのが楽器との接触の最初でした。
それがオルガンになりピアノになり、どんどんして変化していきました。

大槻 では音楽に対してはお母さまの存在がとても重要でしたね。

船山 母の影響は大でした。母は作曲も教えていたんです。私は母のもとで勉強し、中学の時に福島県の作曲コンクールを受け、そのコンクールで特選を受賞したことがありました。その時に同じ特選をとったのがいわき市の中学校にいた小林研一郎さんだったんですよ。
彼はのちに指揮の方に行き、私は作曲の方にいき方向は違いましたけどね。

大槻 それは奇遇ですね。

船山 芸大でも同級生でした。

大槻 船山さんがピアノを始めたのはいくつですか?

船山 オルガンとピアノが小学校の2年ぐらいかな。先生は最初福島大学を出たばかりの音楽の好きな国分久先生でした。
高校生の時は郡山の第二中学の磯谷幸枝先生につきました。

大槻 え、これまた奇遇ですね。私も実は郡山二中に在学中、磯谷先生に歌の個人教授を受けました。磯谷先生は毎年のように生徒の個人指導を買って出ていたようですね。
音楽の道の具体的なイメージを描くきっかけはありましたか?

船山 安積高校時代、音楽の情報がほとんどなかったのですが、ただ村田武雄の『音楽芸術論』という分厚い文庫本を読んで、これは素晴らしいと思いこういう人になりたいと思いました。当時、郡山の労音(勤労者音楽協議会)は最盛期でよく演奏会を聴きに行きました。高校の時、その批評を書いてまたよく労音の事務局に送ったんです。でも一回も載らなかった(笑)。

大槻 その頃からすでに批評を書いていらしたのですね

船山 安積高校に安積野という季刊誌があったのですが、3年生の時に僕の最初の批評、現代音楽について書いたものが載りました。嬉しかったです。音楽家は音だけ、評論家は言葉だけですが、私は言葉と音の関係を追求して行きたいと思いました。

大槻 普通は楽器のプロ、歌のプロになりたいという人が多いですが
なかなか最初から学術的、批評的な所を目指すのは珍しくないですか?

船山 珍しくないですよ。シューマンは子供の情景が代表作ですが、シューマンは作曲と書くことを両立していました。そのほかベルリオーズ、ワーグナー等、音楽家は音だけを扱うわけじゃない。音と言葉は一つなのです。
ドビュッシーも最高。その評論集の『ムッシュ・クロッシュ・アンチディレッタント』は、近代、現代音楽書の入門書になっています。

大槻 では少年の頃から音楽に慣れ親しんでいながら文章を書くことを当然と考えていたのですか?

船山 はい、これはD N Aの話になりますが、実は私の父船山金蔵は、小中学校の校長で学校を転々としていたのです。その一方で文学者でもありました。青春時代に私家出版で詩集を出し、そのほか福島民報に「悪童記」という小説を連載で書いていたんです。そのほか短歌も詠んでいました。ですから僕は父の血を受け継いでいると思います。だから言葉で考えて言葉で書くということはわりと平気なんです。

大槻 なるほど、船山さんの文章はとても文学的な匂いが漂いますよね。
とても絶妙だと思います。

船山 父のD N Aのおかげでしょうか。父に感謝しています。

大槻 では高校時代も華やかな環境だったのでは?

船山 華やかじゃないですね。ただピアノを練習しているだけ。
でも安積高校の学園祭では、福島県一古い校舎の2階のシャンデリアのある講堂でグランドピアノをソロ演奏しました。同級生で覚えている人はほとんどいないのですが、先日郡山で私の講演を聴きに来てくださった老婦人が、「高校時代の演奏を聴きました」と言ってくださいました。曲はベートーベンの「ワルトシュタイン」を演奏しました。

大槻 ワルトシュタインとはすごいですね。また高校を卒業するときに大変な賞を受賞されましたよね。

船山 新城新蔵賞(成績優秀者に贈られる)を受賞しました。(1960年)
朝河貫一賞と並ぶもので、成績は良かったんでしょう。勉強ばかりしていました。

大槻 大学を選ぶときに初めから芸大を目指したのですか

船山 初めは地元の先生に習っていました。
その後大変でしたが、東京の芸大のピアノの先生、石澤秀子先生のもとへ汽車で通って習っていました。5時間ぐらいかかりましたね。そしてストレートで芸大に合格しました(1960年)。英語や学科は進学校の安積高校だったから簡単でした。100点を取れたと思いました。
ただソルフェージュが困りました。まず母親に頼んで毎朝5時に弾いてもらい、それから音楽好きの同級生の女の子にも頼んで勉強しました。
結果ストレートで入学し首席で卒業しました。

大槻 トップで卒業ですか。もうよだれが出るほど素晴らしい人生ですね。

船山 僕はイーゴル・ストラビンスキー※1という人を卒論の対象にしていたのです。僕は郡山には辺境の地というイメージがあるんですね。
ストラビンスキーもペテルブルクという何もない田舎町で育っていてパリで世界一になった。そういう意味で辺境に興味を持った。マーラーもそうなんですよね。ボヘミヤとモラヴィア地域という田舎村に育ってそこからプラハからウイーンへ。辺境から世界一になったという人に親近感を持ったのです。

大槻 では船山さんはマーラー※2が田舎で育ったという境遇には共感されているのですね。船山さんにとってマーラーに興味を持ったのはそういう意味もあったのですね。

船山 そうですね。マーラーに興味を持ったのは後になるけど、ストラビンスキーの論文を大学時代に書いていたわけです。卒業はトップでそこから大学院を受験したんだけと途中試験を放棄し一浪することになるのだけど。その当時、女房と既に付き合っていてね。女房の方はそのまま大学院に入学しました。

大槻 ではここで奥様※3のお話を。先生は奥様と大学時代にお知り合いになったのですね。

船山 同級生でした。女房は都会の雰囲気がありましたね。

大槻 大学も大学院も、パリ大学への留学も一緒、そしてご夫妻共々音楽界でご活躍されているのも絵に描いたような稀有なことですよね。

船山 結婚式を品川プリンスホテルで開催した時、女房は大学院に合格していて僕は浪人生で、仲人をお願いしたフランス文学者の小松清教授が僕のことを何て紹介したらいいか困っていました。

大槻 ところでストラビンスキーを先生が評論した本を読ませていただいたのですが、こういうふうに説明するのかと、日本ではああいう評論の仕方をする本はないと感嘆しました。ある意味数学的な書き方ですよね。
それに、ドビュッシーのペアレスとメリザンドの「ペアレス論」も興味深く読みました。ワーグナーの示導動機のドビュッシーへの影響論で、船山さんの有るという断言に納得し感心しました。

船山 ストラビンスキーが生誕100年の時にストラヴィンスキーに関する研究本も沢山出ていたので僕もほとんど読み改めて凄い人と思いました。数学的な分析はピエールブーレーズ※4の分析をモデルにして、先人の業績をつかいながら自分の考えを述べて、わかりやすい切り口にしました。

大槻 話を戻しますが、その後奥様と二人でパリ大学に留学したきっかけは?またパリでの生活はいかがでしたか?

船山 当時は音楽といえばドイツ。仲人小松清先生がフランス語の先生。その授業を二人でとったのが出会いでした。そのためフランスに行きたいとなった。
子供も早く生まれて、子供二人連れて後から女房もフランスへ留学。子供たちは全くフランス語を知りませんでしたがフランスに来て三日後からフランスを話し始めましたよ。フランスは素晴らしい国。保育所に到着2日後から入れてくれて。保育料は当時の自分の給料に合わせてほとんど無料で素晴らしかった。フランス生活では日本の演歌もよく聴いていました。
実は高校時も演歌が好きでよく聴いていたのです。日本の流行歌、別れの一本杉をフランスで聴いて懐かしかった。
パリ時代は、『現代音楽1』という本の為の原稿をまとめて東京に送り、友人たちが印刷してくれました。

大槻 惚れ惚れしながら読みました。ドイツ語もフランス語も当たり前のように自在でどうゆう能力をされているのか驚きです。

船山 この本は自分で言うのも変ですがとても好評で、私は東京から送られてくる良評に満足しました。

大槻 またフランス語もご堪能でフランス語の本もお書きになって素晴らしいです。訳するのはわかるけど、フランス語で書くって凄いです。

船山 フランス語で書くのは難しい。フランス語で書くときは必ずフランス人に確認してもらっています。

大槻 フランス音楽を総合すると船山さんにとっていかがですか?

船山 やっぱりフランスにはイマジネーション想像力、自由さがありますね。ドイツ音楽は心の豊かさに溢れています。確かラヴェルにしてもドビュッシーにしても、トーマスマン※6の言葉にあるけど「音楽的であるということはドイツ的であるという事」。うちの女房は今ベートーベンにハマっていますよ。フランスはどちらかというと絵画的かな。

大槻 フランス音楽の絵画性には全く同感で強く感じますねえ。それでもワーグナーの影響を受けた作曲家もフランク※11なんかを含めて結構いましたよね。
ところでパリからお帰りになったのはいつですか?

船山 33歳でした。まだまだ居たかったが、服部幸三教授から電話が来て帰ってこいと。そして小泉文夫先生など恩師たちと一緒に教えることになった。芸大の音楽学科の教授、服部先生、小泉先生、柴田南雄先生には本当によくして頂きました。素晴らしい恩師たちでした。

大槻 雑誌に評論を書き出したのはいつからですか?

船山 それはずっと若くて20代から。24歳の時に「音楽と沈黙」を書きました。吉田秀和さんや武満徹さんという先輩が、この人(船山)がいいからどんどん書かせろと雑誌の編集の人に言ってくれて沢山注文が来ました。

大槻 あの頃、「音楽現代」で船山さんの評論を読んでいました。そのほか、さまざまなところでの船山さんの評論は読んでおりました。私はワーグナーが好きだったから、ワーグナーの「毒はどこへ」を楽しく読ませていただきました。ワーグナーの毒についてとても明解に理解でき共感しました。

船山 ところで大槻さんはバイロイト※7には何回行きましたか?

大槻 4度行きました。

船山 凄いね。音楽家以外で4回も行った人は知らないなあ。私は1度きりですよ。ちなみに誰と?

大槻 3回は一人で、最後は孫娘と行きました。
船山さんは45歳の時にマーラー研究旅行へ行きましたね。

船山 その頃マーラーはあまり知らなかった。
新潮社からマーラーを書いてくれないかと言われ、マーラーの足跡を生まれたところから住んでいたところまで辿って行きました。とても草深いところで育っていてお父さんは無学でお酒の販売人でユダヤ人だったために許可なく結婚も引越しもできなかった。プラハという宝石を散りばめたような街もこの時初めて行きました。マーラーはプラハで勉強しウイーンに出たけどそれは郡山から東京に出るより遠くに行くことだったかもしれません。とにかく現場に足を運んで書くことは大切なこと。僕は書くときは必ず足を運んで裏を取ります。

大槻 私は日本人だから、いきなりオーストリアの民謡がでてきても違和感ありませんが、マーラーがこれほど一般的になるにはヨーロッパの人には抵抗がありますよね。

船山 ルチアノ・ベーリオという人のシンフォニア第3楽章というのがあって
これはベートーベン、マーラー、ワーグナー、ドビュッシー、などのコラージュ集になっていて、マーラーはコラージュ的なものを持っている。
日本もそういうふわっとした多層的なものがあるからマーラーが受け入れられるのではないでしょうかね。

大槻 私にはマーラーのシンフォニーは自然の音の中から生まれて自由奔放に展開しながら精神の奥底へ入り込み、自由に終わってゆくという印象です。船山さんはマーラーの大家と言われていますが、日本でもマーラーの人気は大変なものですよね。
ところで津山でなぜマーラーを中心にした音楽会をされましたが(2002~2012)※8当時よく受け入れられましたね。

船山 これは日本フィルの大指揮者渡邊曙雄先生が当時マーラーを看板にして知らない音楽をやってみたいと発案しました。
30年かかりました。僕の友達である世界一のマーラー学者のアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュとドナルド・ミチェルとかが何度も来てくれて人口10万人の街で大成功を収めました。
その音楽祭は10回続きサントリー地域文化賞を受賞しました。
そういえば、大槻さんと作田さんが遠路はるばる来てくださいましたね。

大槻 そうですね、郡山から新幹線で東京、そして飛行機で岡山へ、そこからタクシーで津山へ行きました。マーラーの交響曲第四番を聴いてとても感動しました。

船山 馬車に乗ったり歩いたり、遠路遥々聴きに行ったりするのは大愛好家で、ヨハン・セバスチャン・バッハがそうでした。

大槻 ちなみにこの頃、船山さんはフランスの芸術文化勲章 シュバリエを受賞されました。なんと47歳で!

船山 僕のこれからの望みは、郡山で新しい音楽を作ること。
ここは楽都と言いながらその名に相応しいことはしていないので僕は生涯かけてのテーマが郡山なんだからここで大きな音楽の華を咲かせたい。
まずは郡山文化協会の皆様からアクションを起こしてもらいたいんです。
不平ばかり言っていても何も変わらない。行動を起こさないといけない。
「楽都郡山を考える会」の皆さんと今、作戦を練っているところ。私は顧問、大槻さんは会長ですから頑張って頂かないといけない。

大槻 仰る通りですね。船山さんにとって郡山での活動で思い出に残るものは?

船山 1986年に開催した、郡山で開催した国際コンピューターミュージックフェスティバル※9でしょうか。湯浅譲二先生に誘われてパネラーを務めました。
あの当時、日本でもなかなかない斬新な企画で、友人の作曲家ヤニス・クセナキス、ロジャー・レイノルズも来日しました。その時私の両親も来てくれて、シンポジウムの会場で両親を目の前にパネラーで話すのが恥ずかしかったのも今となっては懐かしいですね。クセナキスと安積高校の校舎の前で撮影し、その写真が『文藝春秋』に載りました。その時、実行副委員長を務めたのが大槻さんであり、義理の息子さんである大河原宏之さんが事務局長でした。これからの時代は大河原さん達ですね。

大槻 またフロンティア大使を郡山市から任命され、のち郡山市図書館名誉館長を任命されましたね。これは芸大の図書館長だったことからでしょうか。

船山 品川市長が芸大の図書館にいらして見学されてから依頼されました。
喜んで受けたのだけれど、市が何もしないから一度辞表を叩きつけたことがあったけどね。市長のイメージでは「楽都郡山」に相応しい図書館を実現せよということで一歩ずつ進めています。「楽都郡山」に相応しい図書館のイメージを近日中に公表しますのでお楽しみに。
そのほか公会堂の音響環境を整えてもっと良いコンサートができるように
郡山文化協会の人にも後押ししていただきたい。
音楽を育むためにはやっぱりホールが大事。
大槻さんも長くやっていらっしゃるけれど、人生長くないんだから早く実現しないと。

大槻 はい、そうですね。そのほかこれから実現したいことがありましたら教えてください。

船山 そのほか、マーラーの『千人の交響曲』※10を郡山市でやりたい。

大規模な編成で完成する交響曲を地元ゆかりのアーティストを集めて成功させたい。マーラーのこの曲は「一つの宇宙が響き始める」と言われています。
これはマーラーを知らない人でも大きく心を動かされる素晴らしい音楽会となるでしょう。
(なお、郡山市公会堂での「千人の交響曲」の東北初演に関しては、すでに別の形で活字にしています) 添付資料あり

注釈
※1 ストラビンスキー
イーゴル・ストラビンスキー(1882-1973)
ロシアの作曲家。『春の祭典』、『火の鳥』、『ペトルーシュカ』他を作曲

※2 マーラー
グスタフ・マーラー(1860-1911)
作曲家 指揮者 10曲の交響曲や声楽曲ほかを作曲。

※3 奥様
船山信子 船山夫人 音楽学者
上野学園大学学長 フランス芸術文化章シュバリエ受章

※4 ピエール・ブーレーズ
フランスの作曲家、指揮者(1925-2016)
「ブーレーズ音楽論」船山隆訳 「ル・マルトー・サン・メートル」
ほか作曲

※5 フランスの勲章
1988年船山氏が47歳の時にフランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエを受賞

※6 トーマス・マン
ドイツの小説家(1875-1955)「トニオクレーゲル」「ヴェニスに死す」「魔の山」ほか
ノーベル文学賞受賞

※7 ルチアーノ・ベーリオ
イタリアの現代音楽作曲家(1925-2003)「シンフォニア」ほか

※8 バイロイト
バイロイト音楽祭。ドイツバイエルン州の小都市バイロイトで行われる。
ワーグナーのオペラ楽劇を上演。

※9 津山国際音楽祭
岡山県津山市で1987年に設立され、3年に一度開催した総合音楽祭。
マーラーを中心に演奏されてきた。2018年9月第1回目の音楽祭がサントリー音楽財団地域文化賞を受賞。

※10 マーラー 交響曲No.8
1000人の交響曲と云われる。独唱者8名、二群の合唱、少年少女合唱と
大オーケストラで演奏される。   

※11 ゼザール・フランク
フランスの作曲家 オルガニスト
「交響曲二短調」「ヴァイオリンソナタ イ短調」ほか

船山隆氏プロフィール

  • 1941年郡山市生まれ。福島県立安積高等学校、東京芸術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院音楽研究科修士コース終了。パリ第8大学博士コースに在学(1972~1974)
  • 1984年東京藝術大学教授。2009年に定年退任、名誉教授となる。
  • 2014年より郡山市フロンティア大使。2016年より郡山市図書館名誉館長に就任。
  • 1988年フランス政府文化勲章シュバリエ受章。2020年瑞宝中綬章受章。