「私と音楽の出会い」
理事 春山秀城
小学時代のハーモニカ、高校では男声合唱、大学ではクラシックギター、スウィングバンドのトランペット&ドラム、福島市民オーケストラのティンパニー&オーボエと遍歴、この頃東京芸大の梅原美男教授に2年くらい指導を受けに通いましたが、前後に指導を受けている生徒さんの演奏にかなり影響を受けました。
縁あって当時新設のFTVジュニアオーケストラ(福島市)の講師を引き受け、郡山市に転居後は郡山市民オーケストラのオーボエを担当していました。
郡山でも、地方ではオーボエの指導者が少ないこともあり、請われるままにアマチュアながら教えることになりましたが、県内の主に小・中・高生・一般の、プロになった子を含め200人を超える人数となりました。
プレーヤーとしての関わりの関係で、多少視点の違う音楽感を持っているかもしれません。
私が楽器と生徒を通して体験したことで、他の楽器にも通じると思われることがいくつかあります。
1)楽器奏法のレベルは本人の持っている感性の高さと、それを表現するに十分な楽器という道具の使いこなす技術力にあること。
2)感性の高さは、殆どもともと持っている能力によりますが、しかし道具の使いこなしには努力が報われること。
言い直すと「努力はした方が良いが、報われるとは限らない」という、社会の論理には相反する答えになります。
3)洋楽は決して資格で演奏するわけではなく、音を出していくらの世界ですので、聴衆が鍵を握っているところに留意したい。
4)教えるに当たって気をつけていることは、道具にすぎない楽器そのものを指導するのではなく、それを使って自分が表現したい音楽を聴き手に伝える事が大事と教えていました。
勿論その為には、結果的に当面の楽器の修練が必要になります。
これは音楽だけの話ではないが、例えどんなに上手になっても、その優劣だけで人の能力を量ってはならない事を知りました。
話は変わりますが、今考えても小学時代までに経験した3つの事が記憶に残ります。
あ
1つ目は、小学校に入る前まで、当時としては珍しく母親の指導でハーモニカを練習していました。
当時はハ長調(イ短調)しかない楽器ですので、あらゆる曲には対応できません。
その時母親に旋律を聴いて、その調性に合う音階に移調して演奏する要領を教わりました。
この技術は今でもかなり応用出来ます。
あ
2つ目は、小学校に入ってから校歌の指導を受けたときです。
歌詞を覚える作業は、ひらがな状態で丸暗記し今だに覚えていますが、当時は意味は分かりませんでした。
音でのみ覚えた歌詞が、中学生になった頃に漢字状態で文字を再現でき、やっとその意味を理解しました。
「立てし心しかわざれば、石に立つ矢もありという。つとめはげみてひろき世の、まことの人とうたわれん。」と一番のみしかありませんでしたが、中学生になった私でも立派な歌詞だと思った記憶があります。
小学生の頃には理解できませんでした。
あ
3つ目は小学校の文化祭(他学では学芸会と云われている)の時のことです。
4,5,6年それぞれの学年が中心に、音楽(合唱)付きの演劇を行っていました。
当時5年の小生の学年では「勧進帳」が選ばれ、ちなみに私の役は山伏12で台詞は「そうだそうだ」のみで、5年生ながらやや不満でしたが、山伏が10人以上もいたのでは仕方が無いと思っていました。
小学校では珍しく、専任の音楽教師が脚本・作曲・指揮を担当し、市関係者、父兄を招き公演を行いましたが、かなり好評であったと記憶しています。
成人して、音楽にある程度知識を持つようになってから、この公演はテーマこそ決まっていたものの、「創作舞踊」か「オペラ」のような舞台芸術であったと気づきました。
1953年当時に、素晴らしい先生がいたものだと今でも感動を覚えます。